【散策】長崎市内を散策/歩いて原爆史跡を巡り平和の尊さを学ぶ

■0046・2021年9月27日-10月2日 長崎4泊5日-3

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長崎市内の原爆に関するスポットを巡り、平和の尊さを学びました。

長崎県長崎市にやって来ました。
路面電車、岩屋橋電停で下車。

画像をクリックすると、拡大します。

まずは、腹ごしらえ。
長崎チャンポンの東角で食事してから‥

①西部瓦斯長崎支店大橋製造所跡(西郷橋公園)
②原爆救援列車運行の地
上記2か所を見学します。

では、市内を歩いてみましょう。

長崎市のマンホールは、市花/アジサイをモチーフに、中央に長崎市章がデザインされています。

☝画像をクリックすると拡大します。

=西部瓦斯長崎支店大橋製造所跡=
爆心地から北へ800m地点。
昭和16年に建設された大型ガスタンクがありましたが、原爆の炸裂による爆風で倒壊しました。

西部瓦斯長崎支店大橋製造所跡地は西郷橋公園となり、子供たちの遊び場になりました。

=原爆救援列車運行の地=
昭和20年8月9日、米軍機から原子爆弾が投下され、多数の負傷者が線路沿いに避難してきました。

当時、列車を運行していた運輸省門司鉄道局長崎管理局職員の奮闘により、列車を爆心地から1kmのこの地まで乗り入れ、汽笛を聞きつけた負傷者を乗せ諫早/大村方面へ運び、鉄道は被爆者の救護や被爆後の救援に極めて重要な役割を果たしたそうです。

【 響け汽笛よ 】寺井邦人.作。
この絵を描いた作者は救援列車の機関士で、当時の様子が鮮明に描かれています。

救援列車が駆けつけた地点。
長崎本線は原爆投下当日不通となりましたが、早くも翌日から昼夜を徹した懸命の線路復旧により、原爆投下3日後の12日朝には長崎駅まで開通させたそうです。

長崎と同じく被爆地となった広島でも、広島電鉄は原爆投下から3日後に電車を走らせました。

これを聞いて‥
2011年3月11日の東日本大震災において、三陸鉄道は津波で被災しながらも、震災から5日後に列車を走らせたことを思い出しました。

時代は変わっても、鉄道マンの奮闘って凄いですね。

12:09
岩屋橋電停から路面電車に乗って、平和公園電停で下車。
この電停、平成30年7月以前は松山町と言う電停でした。

出典・google Map ☝画像をクリックすると拡大します。

☝上記のルートで歩いてみました。

①平和公園電停.12:13

②平和公園.12:16-12:32

③山里小学校.12:39-13:05

④如己堂.13:08

⑤浦上天主堂.13:13-13:35

⑥爆心地公園.13:43-14:05

⑦長崎原爆資料館.14:07-15:34

⑧原爆資料館電停.13:41

12:17
=平和公園=
原子爆弾落下中心地/爆心地と、その北側の丘の上とを含めた地域に、悲惨な戦争を二度と繰り返さないという誓いと、世界平和への願いを込めてつくられました。

平和公園 (長崎市サイト)

平和公園は5つのゾーンにわかれています。
最初に訪れたのは、願いのゾーン 祈念像地区です。

=平和の泉=
原爆のため体内まで焼けただれた被爆者たちは「水を、水を」とうめき叫びながら死んでいきました。
その痛ましい霊に水を捧げて、冥福を祈り、世界恒久平和と核兵器廃絶の願いを込めて浄財を募り建設された直径18mの円形の泉です。

平和公園・願いのゾーン 祈念像地区 (長崎市サイト)

被爆し、水を求めてさまよった少女の手記‥

のどが乾いてたまりませんでした 
水にはあぶらのようなものが
      一面に浮いていました 
どうしても水が欲しくて 
とうとうあぶらの浮いたまま飲みました

世界平和を祈って‥
– 黙祷 –

=長崎刑務所浦上刑務支所跡=
今、平和公園のあるところには、長崎刑務所浦上刑務支所がありました。
建物は原爆によって破壊され、建物基礎の遺構が残っています。

=平和祈念像=
この像は神の愛と仏の慈悲を象徴しており、長崎市民の平和への願いを象徴する高さ9.7m・重さ30tの青銅製像です。
長崎出身の彫刻家/北村西望氏によって制作されました。

高く掲げた右手は原爆の脅威を。
水平に伸ばした左手は平和を意味。
軽く閉じた目は原爆犠牲者の冥福を祈っております。

平和公園 平和祈念像の位置は、☝コチラ。

12:40
=長崎市立山里小学校=
爆心地から北へ約600mほどの位置にある、旧山里国民学校です。
こちらの児童記念館の1階には、原爆資料室があります。

山里小学校の位置は、☝コチラ。

=原爆資料室=
本校の被爆関係資料や永井博士の被爆後の活動説明の展示。
また現在の本校における平和教育の説明などが掲示されております。

学校敷地内にありますが、個人見学が可能です。
見学させて頂きましょう。

米軍が撮影した、原爆投下前後の空中写真です。
あぁ、街が消えてしまったよ。

昭和9年に建てられた山里国民学校4代目校舎。

原爆により、コの字型の鉄筋コンクリート造3階建の4代目校舎は、爆心地に面した南側(画像右側)が強烈な爆風を受け、3階の部分が崩壊しました。
その後間もなく、2階と地階から発生した火災により、校舎北側の1・2階のみを残し内部を全焼、校舎は外郭を残すのみで空洞化しました。

画像は被爆した4代目校舎です。

被爆後も活躍した4代目校舎と、新築された5代目校舎です。

被爆した4代目校舎の跡地は校庭となりました。

校庭で遊ぶ令和の子供たち‥
あの時のようなことを二度と体験させてはなりません。

=あの子らの碑=
この慰霊碑は、原爆で亡くなっていった子ども達・教職員・家族の霊を慰めるため慰霊碑をつくろうと、山里小学校の児童の手記をまとめ「原子雲の下に生きて」を昭和24年に出版した長崎医科大学.永井隆博士の意見に、子ども達が賛同してつくられたものです。

黙祷。

山里小学校の第二校歌 あの子 です。
永井隆博士が作詞され、平和をテーマにした曲作りに精力的に取り組んだ被爆作曲家/木野普見雄先生によって作曲されました。
ご両人は、近隣の城山小学校にも 子らのみ魂よ を残されています。

平和祈念式典では毎年交互に両校の児童が自校の曲を合唱し、会場には子どもたちの澄んだ歌声が響きます。

=防空壕跡=
校区町内婦人会の協力により、当時の校庭周辺の崖に掘削された全児童収容可能の横穴式防空壕です。

原爆投下当日も新しい防空壕を掘削する作業をしていた多くの先生方が、この崖に叩きつけられ亡くなり、熱線や放射線を浴びて負傷した教職員や児童、付近の人々が防空壕へ避難しましたが、多くの人々がこの中で亡くなったそうです。

当時20数か所ほど掘られたの防空壕は改修され、当時の状態ではなくなりましたが、現在3か所が開口しています。

=如己堂=
如己堂は、永井隆博士の病室兼書斎です。
原爆で無一文となった浦上の人々が博士のために建てたこの建物を、博士は“己の如く隣人を愛せよ”という意味から“如己堂/にょこどう”と名付け2人の子ども達と共に暮らしました。

原爆・人間・愛・平和……
永井隆博士はこれらをテーマとし、自らの体験をもって後世に伝えておきたいと願ったメッセージ性に富んだ名高い作品「長崎の鐘」「この子を残して」など名高い作品を残されました。

現在この如己堂は、多くの人に受け継がれている永井隆博士の恒久平和と隣人愛の精神の象徴となっています。

如己堂の位置は、☝コチラ。
隣接して、長崎市永井隆記念館があります。

原爆投下前の浦上天主堂です。
大正14年に完成した赤レンガ造りの天主堂は東洋一の天主堂と言われました。

原爆により崩壊した浦上天主堂。
跡形もなくなってしまい、左下に鐘楼が落ちています。

今、画像の赤枠地点にある石垣は‥

今も健在です。

実はこの石垣は庄屋屋敷の遺構でありまして‥
天主堂が建つ前は、旧浦上山里村の庄屋屋敷がありました。

実はこの床屋屋敷、キリスト教迫害時代に信徒たちが踏み絵を強いられた場所であり、その土地を浦上教会が労苦を重ねて明治13年に入手したという歴史的な背景があるのです。

その東洋一と言われた天主堂は原爆によって倒壊。
地面に転げ落ちた画像の四角い形をした旧鐘楼は‥

崩壊しつつも、今も残っているんです

アンジェラスの鐘とも呼ばれた旧鐘楼は、すさまじい爆風で吹き飛ばされ天主堂の北方約30mの地点に落下したものが現在でも現地で保存されています。
被爆時のままに保存されている旧天主堂本体唯一の遺構であり、平成28年10月3日、国の史跡/長崎原爆遺跡に認定されました。

原爆によって破壊された旧天主堂の遺構や残った像です。
教会敷地内に保存されています。

浦上天主堂(カトリック浦上教会)の位置は、☝コチラ。

13:21
=浦上天主堂・浦上カトリック教会=
戦後.昭和34年、天主堂は原爆で被災する前の天主堂をモデルに鉄骨コンクリートで再建されました。
そして昭和55年、ローマ法王.ヨハネパウロ2世の訪問に併せて、外装を赤レンガ造り・窓をステンドグラスに改装し、現在の美しい天主堂となりました。

天主堂の中は見学可能です。
神聖な場所なので撮影は禁止されております。

=被爆マリア像=
終戦後、浦上出身の野口嘉右衛門神父(厳律シトー会)によって瓦礫の中からマリア像の頭部が発見されました。

発見されたマリア像は現在、浦上天主堂の一角につくられた小聖堂に静かに安置されております。

祭壇に描かれた〈平和〉の文字は、浦上キリシタンが迫害時に縛られて見せしめにされた柿の木の根っこを使用して書いたものだそうです。

13:28
=浦上教会原爆遺物展示室=
教会再建時に発掘・収集された被爆物(溶けた聖母像や聖杯・ロザリオなど)を展示する資料室が浦上教会信徒会館に併設しております。

こちらも見学させて頂きましょう。

浦上教会原爆遺物展示室

13:44
=爆心地公園=
平和公園/原爆落下中心地地区・祈りのゾーンとして整備されました。

2020東京パラリンピックの聖火の種火を採る長崎市の採火式が令和3年8月16日、爆心地公園で行われたのは記憶に新しいですね。

平和公園・祈りのゾーン 中心地地区 (長崎市サイト)

爆心地公園の位置は、☝コチラ。

=原子爆弾落下中心地碑=
今の碑は昭和43年に設置された高さ6.5mの黒御影石製で4代目となります。

黙祷。

空を見上げてみましょう。

筆者が訪れた日から76年49日前の昭和20年8月9日・木曜日・午前11時2分。
広島に次ぐ第2目標の小倉での原爆投下を断念し、第3目標である長崎にB29米軍機ボックスカーが原子爆弾を上空約9,000mから投下。
プルトニウム原子爆弾ファットマンがこの上空500m付近で炸裂しました。

長崎において、本来の投下目標は市中心部を流れる中島川の常盤橋(眼鏡橋の近く)でしたが、原爆投下実行時、長崎市上空の高度1,800m~2,400mの間は80~90%の積雲で覆われており、わずかな雲の切れ間の下に見えた松山町が臨機目標となってしまったのです。

原爆投下前の爆心地付近(松山町)の居住区画復元図。
爆心地には別荘のテニスコートがあったそうです。

初代の原爆落下中心碑です。
昭和20年9月に組織された原子爆弾災害調査研究特別委員会が同年10月、煙突の残骸の円柱に「爆心・Centre」と書き記して、標柱として建てました。

=旧浦上天主堂遺構=
崩壊した旧浦上天主堂の廃墟は、広島の原爆ドームのように爆心地付近の惨状をありのままの姿で後世に伝えられる遺物として保存する計画案があったのですが、様々な事情から旧天主堂の廃墟の一部は爆心地公園に移転されました。

=聖徳寺灯篭=
爆心地から南南東1.5kmに位置する聖徳寺は原爆で本堂もろとも崩壊しましたが、この一対の灯篭は奇跡的に残りました。

この灯篭は原爆の惨状を伝えるものとして聖徳寺から寄贈を受け、昭和24年2月にこの地に移設されたものです。

爆心地を流れる下の川を眺めます。
当時の様子を銘板にある「長崎の証言」1970から抜粋すると‥

下の川の、なかば崩れた松山橋を渡る時―
ああ、その下には川の水も流れることもできないほどの人間の死体が埋まっているではないか。
それはあたかも聖書に出ている世の終わりを想わせる。
この世の生き地獄図そのままだ。
空は白雲一つない晴れわたった青空というのに、地上はなんという悲惨な光景だ。

今の風景からは考えられません。
河川改修の時、被爆当時の石を原爆の熱線跡を残した被災資料として現在地に留め残しました。

=被爆当時の地層=
原爆中心碑から下の川に降りたところに、被爆当時の地層があります。
地下2m程にある赤い地層からは百余りの人骨や石に付着した溶けたガラスの破片や気泡だらけの瓦、 炭化した木片が出土しました。
この地層では、瓦・煉瓦・熱で溶けたガラス・茶碗など、当時ここに住んでいた人の生活の様子が伺えます。

14:08
=長崎原爆資料館=
平和公園/長崎原爆資料館地区・学びのゾーンにあります。

平和の尊さを学ぶをテーマにした上で、ここは外せませんね。
では、入りましょう。

平和公園・学びのゾーン 長崎原爆資料館地区

長崎原爆資料館の位置は、☝コチラ。

入館して、湾曲したスロープを下ると‥
時間がさかのぼり、あの昭和20年8月9日午前11時02分が資料館のエントランスとなります。

長崎原爆資料館
¥入館料 200円

=プルトニウム原子爆弾/ファットマン=
B29米軍機ボックスカーが長崎に落としたプルトニウム原子爆弾/ファットマンの実物大模型です。

この原爆は、長さ約3.25m・直径約1.52m・重量約4.5t。
その形、大きさから太った男を意味する’ファットマン’と呼ばれました。
主な原料はプルトニウムで、その威力はTNT火薬21キロトンの爆発力に相当したそうです。

長崎市上空約9,000mから投下されたファットマンは。松山町上空500m付近で炸裂し爆発。

膨大な熱エネルギーが水蒸気を含んだ大気中へ局所的かつ、急激に解放されたことによって生じた非常に強力な上昇気流によって発生するキノコ雲(原子雲)があがりました。

たった一発の爆弾によって長崎の街は火の海となり崩壊。
昭和20年12月末までに73,844名の尊い命が犠牲となりました。

被爆した浦上天主堂の側壁(再現造型)の展示により、被爆直後の長崎の惨状を再現した展示室です。

被爆の惨状をはじめ、原爆が投下されるに至った経過、および核兵器開発の歴史、平和希求などストーリー性のある展示を見学できます。

=未来へつなぐ 令和 原爆の絵=
長崎原爆資料館企画展示において、原爆に被爆された方・原爆を目撃された方が描いた「原爆の絵」が展示されていました。

言葉が出ません。
心に突き刺さる作品です。

この企画展は、長崎市・NHK長崎放送局主催の元、2021年8月3日~10月31日の間行われました。

15:34
見学を終えました。
展示物やビデオなどを1時間30分ほど閲覧しましたが、時間が足りませんでした。

最後に原爆資料館付近から眺めた当時の爆心地一帯です。
一面焼け野原となった長崎の街は復興し、街の様子は様変わりしました。
しかし、76年たった今も原爆で苦しまれている方がおります。

二度とこのような惨禍が繰り返されなことを願って、原爆資料館をあとにしました。

15:41
原爆資料館電停から路面電車に乗れます。
この電停、平成30年7月以前は浜口町と言う電停でした。

ご覧下さいまして、誠にありがとうございました。