【船旅】函館青函連絡船記念館 摩周丸の映像ライブラリー/ 青函連絡船 -栄光の航跡- を視聴してみた

■0196・2022年9月5-9日.北海道函館4泊5日-9

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青函連絡船として活躍した摩周丸‥
連絡船廃止後は記念館として函館港に係留されております。
さて、記念館の展示で青函連絡船のビデオライブラリーがあるのですが、これを見に摩周丸を再訪しました。

※記事中[拡大]または◎を記している画像は、クリック・ドラッグすると拡大します。

はい、またまたやって来ました。
青函航路に就航した、JR北海道:青函連絡船/摩周丸 です。

= 摩周丸 =
船種‥車載客船
船籍‥日本/函館
運用‥北海道旅客鉄道(株)
総トン数‥5,363t
全長‥132m
全幅‥17.9m m
建造所‥三菱重工神戸造船所
就航‥昭和40年6月30日
終航‥昭和63年3月13日

青函連絡船は青函トンネルが開通し、昭和63年3月13日に津軽海峡線が開業した事から、惜しまれつつも82年間の歴史に幕を閉じました。

今は、函館市青函連絡船記念館摩周丸として、函館港に係留されています。

青函連絡船映像ライブラリー。
これを見に来ました。
全部見ると、6時間20分かかります。

上から2本。
青函連絡船と新しい青函連絡船は視聴済み。
全部見てやろうと、またまたやって来たのですが‥

えっ!
これ1本だけになっちゃったの?

なんでも、機械が寿命を迎えてしまったとのこと‥
ガビーン!

仕方ありませんね。
映像ライブラリーは、グリーン指定席だった席に座ってゆったりと視聴することができます。

=青函連絡船 栄光の航跡=
1988年NHK制作の作品。
放映時間2時間です。

では、はじまりはじまり~

※記事編集の都合上、プログラムの一部を抜粋し実際の進行と異なります。
※出典元/函館市青函連絡船記念館摩周丸は、撮影可能とのことで本記事を作成しました。

青森駅。
上野からの長距離列車で移動して来た人々が北海道に渡る為、青函連絡船に乗り継ぎます。

乗るのは旅客だけではありません。
貨物列車の貨車は、列車ごと連絡船に乗せられていきます。

バーン ババババババ‥
バンバンバンバーン!

出航前の銅鑼の音が船内に響き‥

レッコ。
船長が出航の合図を出すと‥

※レッコとは?
「離せ」「捨てろ」などという意味で、錨を下ろしたり、ロープを離したりするときに使う言葉です。
海運会社によっては出航の号令で使用されています。
なんでも英語の「Let go」から「レッコ」と言うようになったのだとか。

ボー!
長声一発。

出航の汽笛がなり‥

ゴゴゴゴォー

青函連絡船/八甲田丸、青森港を離岸。
函館へ向けて3時間50分の航海が始まりました。

青函連絡船は、乗組員20名・鉄道弘済会10名が1チームとなり、交代で乗務します。

鉄道弘済会とは、公益事業として障害者・児童・老人への福祉事業と収益事業として不動産賃貸等を行っている公益財団法人で、今も健在です。
青函連絡船では、船内売店等の営業を行いました。

連結器に挟まれることや、貨車に飛び乗り作業等で多くの殉職者や負傷者を出し悲惨な労働環境だった鉄道の現場。
手足を失った者や殉職者の遺族、生活困窮者へと成り果ていた者を救済する目的で鉄道弘済会が設立され、鉄道事故などで一家の働き手を失ってしまった遺族(主として鉄道殉職者の妻)に働き口を確保する目的でキヨスク(駅売店)の運営を行いました。

なお、国鉄分割民営化の後、キヨスクの運営はJR各社に引き継がれ、鉄道弘済会は撤退しております。

船内。
多くの船客で賑わっています。

自由席の船客は連絡船の席を確保しようと、列車から降りると連絡船へ向かってダッシュする争奪戦が青森・函館双方で見られました。

さて、青函連絡船は日本海と太平洋に挟まれ、潮の流れが複雑で、難所としても知られる津軽海峡を航行します。

画像を見ると、日本海を北上してきた対馬海流の一部が津軽海峡の西口に集中し、海水は常に太平洋側へと流れているのがわかりますね。

津軽海峡の海流は8ノット(約15km/h)にもなるうえ、地形の関係に加え、潮の干満や気象条件により複雑な動きします。
そのため、昔から船舶の航行を妨げ、難航や遭難が絶えませんでした。

青函連絡船は時によって、荒れ狂う海峡を航海しなくてはなりません。

荒れ狂う津軽海峡を青函連絡船は突き進み‥

ドドド.ドーン!
ブァシャーン!

うわあぁぁ!

ビシャビシャビシャ.

ド.ドーン!
ブァシャーン!

ビシャビシャビシャ.

船首に容赦なく波が当たり、音が船内に響いています。

操舵室は緊迫した空気に包まれています。
一瞬たりとも気を抜けません。

みんなぐったり。
目的港に着くまで、揺れに耐えるしかありません。

船酔いしちゃったのか。
つらそうですね。

時化の航海は試練ですが‥

海況が良い日は快適な船旅です。

こんな宴会風景も‥
躍りに手拍子、みんな楽しそう。

船内には食堂があり、イカ刺し定食をはじめとした各種定食・ラーメン・カレーライス・スパゲティ、その船舶だけの特別メニューもあり、美味しい食事を楽しめました。

美味しそうだな。

青函連絡船の歴史をみてみましょう。

もともと、青函航路は郵便汽船三菱会社から引き継いだ日本郵船が運航していたのですが、本州/北海道の鉄道網が整備されると海況を往来する人が急増し、鉄道で到着する人をさばけなくなる状態が続きました。

全国組織の日本郵船は青函航路だけ鉄道と一体化した運航形態に変えて船舶を集中導入することや、鉄道会社から要請があった増便に応じることはできず、日本鉄道(国鉄)が自社で鉄道連絡船を運航しようと、比羅夫丸・田村丸を建造し青函連絡船の幕開けとなるのです。
そして、日本郵船は明治43年に青函航路から撤退しました。

=田村丸=
明治41年3月7日、国鉄青函連絡船はイギリスで建造されたタービン船、比羅夫丸(1480t)と僚船/田村丸の就航で始まり、青森-函館間を4~5時間で結びました。

田村丸は、大正13年12月11日まで活躍し終航。
一時復航後、昭和4年7月8日、大阪商船に売却されました。

比羅夫丸/田村丸の就航当時、連絡船が接岸できる桟橋はまだありませんでした。

小蒸気船やはしけで乗り移るのですが、1等・2等客はタラップに艀をつないで確実な乗船ができた傍ら、3等客は船の側面の乗船口から飛び乗る方式で、風浪が強い日などは命がけの乗下船となり、なかには乗下船を手伝う船員に客がしがみつく船客がおり、苦労が耐えなかったとか。
稀に海中に転落する客もいたのですが、すぐに救助され、犠牲者はないと言うから驚きです。

=翔鳳丸=
青函航路初の車両渡船として、大正13年5月21日就航した翔鳳丸(3046t)。
貨物列車の貨車を陸上軌道からそのまま船内軌道へ積載する鉄道連絡船独自の車両航送はこの船から始まりました。

翔鳳丸型と呼ばれた同型の車載客船は、飛鸞丸・津軽丸(初代)・松前丸(初代)が建造され、後に建造される車載客船・車両渡船の原型となります。
翔鳳丸型4隻は昭和20年7月14日、空襲で沈没してしまいました。

昔の船は蒸気船で、船底では機関員(火夫)がSLと同じようにボイラーに石炭をくべていましたが、高温で船体が動揺することから、作業中に熱射病で倒れる者も多く過酷な環境だったそうです。

=洞爺丸=
戦災で壊滅した青函連絡船の復興のため、当時の国鉄であった運輸省鉄道総局がGHQの許可を得て建造した洞爺丸(3898t)。
昭和29年夏、昭和天皇のお召し船として運航します。

同型船として、羊蹄丸(初代)、摩周丸(初代)、大雪丸(初代)があり、これら4隻は洞爺丸型と呼ばれました。

さて、洞爺丸。
昭和天皇のお召し船として輝かしい功績を残したひと月後、惨劇を引き起こしてしまいます。

昭和29年9月26日。
14時40分出航の青森行4便となる予定であった洞爺丸。
台風15号による暴風と高波で函館港は大混乱。
そんな中、乗員乗客1,314人を乗せた洞爺丸は18時39分に、青森へ向けて遅れ4便として出航するのですが‥
猛烈な風浪に襲われたために投錨し仮泊する事態となります。

洞爺丸の他、函館港外で碇泊していた北見丸・日高丸・十勝丸・第11青函丸も遭難することになります。

仮泊中も暴風と高波は洞爺丸を襲い、風は一向におさまらず、大きな縦揺れによって車両甲板船尾開口部から海水が流入。
この当時の車両甲板開口部に船尾扉はなく、常に開口した状態だったのです。
そして、車両甲板上から船内へ海水が滞留していきます。

そして「機関故障のため航行不能となり、七重浜に座礁する」と、船内放送が流れ、救命胴衣着用指示が出されたのち‥

昭和29年9月26日22時45分頃‥
洞爺丸は、函館港防波堤灯台付近の地点で右舷側に約135度傾斜、船底を上にし、七重浜の海岸線に対して船体を平行の状態にして沈没。
船体がほぼ裏返しになり、海面上に船底を曝した状態になり、乗員114人・乗客1,041人の計1,155人が犠牲となり、日本海難史上かつてない海難事故を起こした悲劇の船として、歴史に名を残すことになりました。

救助された生存者は、わずか159人だったそうです。

比羅夫丸から始まった青函連絡船は、時代と共に船が大きくなっていきました。

洞爺丸をはじめとし、多くの船舶を台風で失った後の昭和30年代‥
戦中・戦後の混乱期に建造された質の良くないボロ船が就航していた青函連絡船。
このボロ船の代替と、青函航路の輸送力増強を目的に建造された、同航路初の自動化船として建造されたのが‥

青函連絡船最終型船舶となった、津軽丸型客載車両渡船です。

洞爺丸事故を教訓に安全性をより重視し、輸送力の確保を目的に、当時の先端技術の粋を集め建造された第1船の津軽丸(5319t)は、昭和39年5月10日に就航。
従来4時間30分前後を要していた青森 – 函館を3時間50分に短縮しました。

この最新鋭船舶は、洞爺丸で125名必要だった船員数が49名で運行で可能となり、船員数削減と合理化がなされる事に‥
これに対し国鉄労働組合は猛反発したそうです。

後に、同型となる八甲田丸・松前丸(2代)・大雪丸(2代)・摩周丸(2代)・羊蹄丸(2代)の6隻が就航し、津軽丸型は7隻体制となります。

快適性が向上した津軽丸型の1等指定席(グリーン指定席)
ひとり掛けのリクライニングシートが並び、座席はレッグレスト・フットレストが装備された国鉄最高級座席を装備しました。

座席が確保された指定席客は、連絡船めがけてダッシュする自由席客を横目に優越感にひたったんだとか‥

2等桟敷席(普通客席)もこれまでの就航船よりゆとりある構造となり、大型で快適な連絡船は好評となり「海峡の女王」と呼ばれるようになりました。

本州・北海道を結ぶ動脈の役割を担った青函連絡船は、昭和48年に利用者498万5695人を数え、ピークを迎えることになります。

昭和49年以降‥
本州-北海道のアクセスとして首位を維持してきた鉄道+青函連絡船は航空機と長距離フェリーへ利用客を奪われていきます。
そんな中、国鉄が行ったことは、度重なる運賃の値上げと労働争議によるストライキや遵法闘争であったことから顧客の国鉄離れが急加速し、利用が減少傾向に転じてゆき‥

青函連絡船利用客は昭和52年に314万人と急減!
これまで盛況に満ちていた船内は、閑散となってしまいました。

昭和63年の終航を前に、就航船の引退と売却が行われていきます。

海の女王と呼ばれた津軽丸は、昭和57年3月に引退。
画面では昭和58年となっていますが、昭和57年12月・個人に8,358万円で売却され函館ドックで係留継続。
昭和58年3月・北朝鮮の貨物船として転売。
昭和62年3月・サウジアラビアに売却され、メッカ巡礼船として運航。
平成8年、納付金滞納でエジプト政府に差し押さえられ、平成10年12月にスエズで解体されました。

津軽丸売却以後も他の船舶が売却されてゆき、津軽海峡を後にしていきました。

洞爺丸事故によって青函トンネル建設計画が本格的に浮上し、昭和36年3月23日に建設が開始されます。

しかし、トンネル掘削は度重なる出水事故と、海底の断層が予想以上だったために工事は難航。
昭和54年春開業が、1年・3年と伸び、ついには5年以上の開通の遅れは必至とまで言われるようになります。

トンネルの工事の遅れは、連絡船の延命を意味するのですが、就航船津軽丸型の寿命は18年で設計されており、トンネル開通と同時に引退する予定だった計画が狂い始めます。
新造船の計画を立てられないご時世、高度経済成長期に酷使し老朽化が急速に進行する津軽丸型2隻を廃船にし、残る5隻に延命処置を施しました。

さまざまな困難を乗り越え、昭和58年1月、先進導抗が貫通。
そして、先進導抗貫通から2年‥昭和60年3月本坑が貫通!

構想から42年、総延長53.85km・津軽海峡の水面下240mの海底を貫く待望の青函トンネルが開通。
本州と北海道が鉄道で行き来できるようになります。
そして、これは青函連絡船の終焉を意味していました。

本抗貫通から3年後‥
昭和63年3月13日、JR北海道/海峡線(津軽海峡線)が開業。

青森からは、一番列車となる快速.海峡1号が発車。

函館からは、特急.はつかり10号が出発。
津軽海峡に新しい歴史を刻み始めました。

一番列車の出発式が盛大に行われる中‥

同日、鉄道連絡船としての使命を終える青函連絡船終航式が行われました。
昭和63年3月13日の1日だけ、青函連絡船と青函トンネルの両方で営業が行われたのです。

ゴゴゴゴォー
青函連絡船最終便、函館発22便/羊蹄丸・青森発7便/八甲田丸が出航。

桟橋では、無数の紙テープが舞う中、ブラスバンド演奏による’蛍の光’が流れ、青函連絡船最後の船が離岸していきます。

青函連絡船最終便には、日本全国各地から多くの人々が殺到して満員御礼。

両船を自衛艦が追走し、津軽海峡上で両船はできるだけ近づいて反航。
別れを惜しむ多くの乗船客は精一杯手を振って見送りました。
そして、20時50分、両船は無事に函館・青森に到着。
ひとつの時代が終わった瞬間でありました、

昭和63年3月13日、通常運航の終了。
昭和63年9月19日、正式廃止。

名実共に80年の歴史に幕を下ろしました。

“さようなら青函連絡船”

  ありがとう

おしまい。
パチパチパチ‥

うん、勉強になった。

洞爺丸転覆事故を教訓に船尾扉がつけられた摩周丸。
廃止から34年経過した今も、摩周丸はその歴史を伝えています。

1988年NHKが制作した、=青函連絡船 栄光の航跡=
青函連絡船のことが全般にわかる作品で、これ1本に80年のドラマが詰まっています。
エンドレスで流れているので時間に関係なく、ゆったりしたグリーン指定席に座って視聴できます。
全部見ると2時間かかりますが、船や連絡船に興味のある方は、視聴をオススメします。

※開館案内➡函館市青函連絡船記念館摩周丸

ご覧下さいまして、誠にありがとうございました。