【船旅/散策】船の科学館・初代南極観測船/宗谷 (東京お台場)

■0431・2025年2月13日.東京都内:船の科学館

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1938年(昭和13年)耐氷型貨物船として建造され、日本初の南極観測船として活躍した宗谷。
引退後は、東京.船の科学館で保存展示されているので、見学に行きました。

出典・御船印プロジェクト

神社仏閣めぐりで集められる御朱印の船バーション‥
2021年4月に日本旅客船協会の公認事業としてスタートしたプロジェクト/御船印です。

全国各地のプロジェクト参加社は、海運会社だけでなく博物館もあります。
今回は、東京にある船の科学館/南極観測船.宗谷に行ってみましょう。

関連記事/東京御船印めぐりは、☝コチラ。
ご覧頂けましたら幸いです。

ここは、東京都江東区青海1丁目
東京臨海新交通臨海線.ゆりかもめ/東京国際クルーズターミナル駅です。

=船の科学館本館跡=
東京国際クルーズターミナル駅の向かい側ですが、こちらは品川区東八潮3丁目です。
船の形をした1974年(昭和49年)7月竣工の本館ビルは解体中!

建物が解体される船の科学館ですが、実は全てが閉館とならず、初代南極観測船/宗谷の展示は継続中で、御船印があると聞きつけ‥

やって来ましたよ。
我が国初の南極観測船/宗谷です。

=初代南極観測船/宗谷=
船種‥南極観測船 (巡視船など)
総トン数‥2736.1t
全長‥83.7m
全幅‥17.0m
運用者①‥大日本帝国海軍
運用者②‥海上保安庁
船籍‥日本/東京竹芝など
建造所‥川南工業焼香島造船所
建造‥1938年(昭和13年)6月10日。

※データは書献によって異なる場合があります。

初代南極観測船/宗谷(船の科学館)の場所は、☝コチラ。
船の科学館本館は品川区東八潮3丁目にありましたが、区境にあたり、宗谷は東京都江東区青海2丁目地先にあります。

青函連絡船/羊蹄丸のスクリュープロペラ
青森と函館をつなぐ鉄道連絡船/羊蹄丸は1988年(昭和63年)の連絡船廃止と共に引退し、2012年(平成24年)までの15年間、船の科学館で公開展示されておりました。
羊蹄丸は解体されてしまいましたが、可変ピッチプロペラはモニュメントとして歴史を伝えています。

2025年2月現在、入館料無料!
では、入りましょう。

受付で御船印(500円)を頂きました。
ありがとうございます。

最上甲板

木製の甲板。
今の船では見られなくなりました。
温もりを感じますね。

=3番ハッチ=
積荷を出し入れする開口部です。
デリッククレーンで吊られた物資はここから船倉へ収納され、航海中は海水が入らないようにと、画像のようにハッチボードとカバーで閉鎖していました。

最上甲板は乗組員の中でも、上位にあたる士官クラス用の設備がある甲板です。

=士官食堂=
士官用の食堂兼サロンです。
南極観測当時は、乗組員と観測隊員との会議室としても使われました。

テレビと冷蔵庫が時代を感じますね。

=士官食器室=
船が大きく動揺する過酷な航海でも食器が落下しないよう、差し込み式の戸棚が設置されています。

=機関長室=
船のエンジンなどを所掌する機関科の責任者、機関長の部屋です。
個室が用意されるのは、船長・機関長・航空長・航海長・観測隊長など上級階級の人だけだったそうです。

=航空長室=
ヘリコプターによる観測や航空輸送などの任務を担う航空科。
ここは航空科を所掌する航空長の部屋として使われました。

=第1便所=
船内には4カ所の便所が設置され、海水を使用した水洗式でした。
個室は和式で、ウォッシュレットがないのは言うまでもありません。

=洗面室=
昔の学校みたい。

船の照明。
今の船にもありますね。

=第1浴室=
士官クラス用の浴室です。
航海中は海水を使用。
南極では氷塊を溶かし、真水を節約しました。

=第5士官寝室=
士官用の居室で、左に2段ベッドがあります。
乗組員でも士官クラスとなると、居室にゆとりがありますね。

=第6士官寝室(高層気象観測室)=
南極観測船時代は高層気象観測室として使われ、電離層・宇宙線など高層気象に関する船上観測を行いました。
南極観測船のあと巡視船になった時、第6士官寝室となったそうです。

=第8士官寝室(第2暗室)=
南極観測船時代は、この部屋の左半分ほどが第2暗室でした。
船上観測で撮影.記録したフィルム類は重要な日課だったのです。
巡視船になって、士官寝室となりました。

=避難経路図=
これは重要です。
よく見ておきましょう。

=展示室=
南極の氷・アデリーペンギンの剥製・映像コーナー等、南極に関する展示室です。
南極観測船時代は航空科工作室兼倉庫。
その後の巡視船時代は各課事務室として使われました。

映像コーナーでは、日本南極地域観測隊の記録がご覧頂けます。

1.東京港出航 2.船上観測 3.暴風圏突破 4.氷海突入 5.砕氷航行
6.南極到着 7.オングル島へ 8.基地建設 9.11名の越冬隊 10.オビ号の救護
各チャプター映像は5分で、全て見ると50分かかります。

=南極の氷=
今から数千年前にできた南極の氷の実物です。
宗谷が南極に行った時に採取されたものでなく、第65次南極地域観測協力(2023年11月10日~2024年4月10日)に参加した海上自衛隊(砕氷艦/2代目しらせ)から提供して頂いたものを展示しています。

歴代の南極観測船

パネル及び模型で歴代の南極観測船(砕氷艦)を展示。
観測船(砕氷艦)は、宗谷→ふじ→しらせ→しらせ(2代目)と引き継がれます。
宗谷の歴史を見てみると、かなり複雑な経緯があることがわかりました。

=初代南極観測船 宗谷 PL107=
南極観測に貢献した我が国初の観測船ですが、もともと南極観測船として建造されたのではなく‥
1938年(昭和13年) ソビエト連邦(現.ロシア)が発注した耐氷型貨物船として、長崎県の川南工業焼香島造船所でソ連船/ボロチャエベツ (Волочаевец)として建造。
しかし、日中戦争の激化に伴いソ連への引き渡し不可となり、商船/地領丸として竣工されるのです。

商船となった地領丸は日清汽船に傭船され、中国国内の貨物輸送に貢献。
後に栗林汽船が傭船し、函館-ロシア航路での貨物輸送に貢献します。

商船として活躍する地領丸は、1939年(昭和14年)11月に大日本帝国海軍による買い上げが決定。
地領丸は宗谷に改名。
海軍在籍時代は、雑用運送艦(砕氷型)→特務艦→特攻輸送艦として任務に赴く中、米軍からの魚雷攻撃をかわし、空襲による攻撃を受けながらも被害は少なく終戦。
1945年(昭和20年)、海軍籍から除籍となった宗谷は米国GHQに引き渡されます。
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1945年(昭和20年)10月、宗谷は米国GHQから日本国大蔵省の財産として返還。
この時、日本商船管理局所属の特別輸送艦S119となり、宗谷丸に改名。
グアム・ベトナム・台湾などから復員任務に従事します。
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1946年(昭和21年)8月15日、特別輸送艦の定めを解かれます。
この時、船主が民間組織の船舶運営会となり、大蔵省特別輸送艦から民間組織の引揚船となり、台湾・大連、朝鮮・樺太からの引揚輸送に従事。
輸送中に出産と新しい命が誕生する一幕があった中、19,000名以上の輸送に貢献しました。
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1948年(昭和23年)11月、引揚任務終了。
後、宗谷丸は商船風に外見を改め、真岡-函館間の輸送業務に従事。
海上保安庁が民間から傭船していた灯台補給船/第十八日正丸が船主へ返還するのに伴い、急遽灯台補給船の代船が必要になり、宗谷丸が候補船となる中、砕氷能力を持ち青函連絡船として活躍する同名の国鉄/宗谷丸も候補船となります。
同名船2隻が候補となった中、前者の宗谷丸は測量艇のデリックを備えていた事が好都合となり選出。
宗谷に再改名することになりました。
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1950年(昭和25年)4月、宗谷海上保安庁7代目灯台補給船(LL-01)となります。
東京港竹芝桟橋沖を母港として国内各地を巡る中、米国統治下だった奄美群島が日本への返還に伴い、約9億円の現金と通貨交換業務要員の輸送にも従事しました。
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1955年(昭和30年代)、各国が競って南極観測の計画を進めていることを知った日本。
わが国も南極観測計画に加わろうとなるのですが、観測船を新造するには建造費及び建造期間の点から不可能なことから、耐氷構造の宗谷が候補船となるのです。
そして、この時も国鉄/宗谷丸が候補船として挙げられ、砕氷能力や船体のキャパシティは宗谷丸のほうが勝ってたものの、改造予算の問題や耐氷構造、戦時中の魚雷を被弾するも不発弾等の船運が良かった功績、船齢等の結果、最終的に宗谷が選定。
観測船への改造にあたり、それまで巡視船の白だった船体色をアラートオレンジに塗装変更。
我が国初の南極観測船(PL107)として、1956年(昭和31年)の第1次観測から第6次観測の1962年(昭和37年)まで活躍します
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2代目南極観測船/ふじにバトンを渡した宗谷は船体色が白に戻り、1962年(昭和37年)8月より海上保安庁の巡視船(PL107)として北海道の第一管区海上保安本部に所属。
北洋海域のパトロールに従事する傍ら、南極で鍛えた持ち前の砕氷能力を生かして、それまでは困難であった氷に閉じ込められた漁船の救出、冬期の北洋における医療活動、流氷観測などに大きな威力を発揮しました。
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1938年(昭和13年)の竣工から船齢が40年となった宗谷は、1978年(昭和53年) 10月1日に退役。
1979年(昭和54年)から、船の科学館で保存展示されています。

=2代目.南極観測船(砕氷艦) ふじ AGB5001=
第7次~第24次まで1965年(昭和40年)~1983年(昭和58年)に従事。
輸送担当が海上保安庁から防衛庁(海上自衛隊)に変わり、砕氷艦と呼ばれるようになります。
18回の航海のうち基地接岸は6回と多くの困難に見舞われる中、接岸できなくても計画通りに行動し、任務を完遂させ、第9次隊の極点旅行や第11次隊から昭和基地でのロケット観測など、観測の発展に寄与。

1982年(昭和57年)11月25日、東京港で先代の南極観測船/宗谷の汽笛を受け、後継となるしらせ(初代)に歓送と新旧の南極観測船に見送られながら最後の南極航海へ出航。
1983年(昭和58年)4月20日、東京港晴海埠頭着をもって、2代目南極観測船としての役目を終えました。

引退後は、名古屋海洋博物館・南極観測船ふじとして、名古屋港ガーデンふ頭で保存展示されています。

=3代目.南極観測船(砕氷艦) しらせ(初代) AGB5002=
第25次~第49次まで1983年(昭和58年)~2008年(平成20年)に従事。
先代のふじと比較して大型化し、輸送力が2倍に増強。
25回の航海中、24回接岸成功し、氷海に閉ざされたオーストラリアの観測船/オーロラ.オーストリスの救援を行った実績を持ちます。

2008年(平成20年)7月30日に退役となり、引き取り手のない初代しらせは解体が決定するのですが‥
鉄屑価格下落の影響から解体は先送りとなります。
そんな中、政府の南極地域観測統合推進本部は保存活用に向けて買い手を再公募し、民間の気象情報会社/ウェザーニュースが購入し、千葉県船橋港に係留。
SHIRASE5002に改名され、事前予約制で見学ができるようになりました。

出典・国立極地研究所

初代しらせの引退後、予算上の都合により新造艦の就役までの間に1年の間隔が空きます。
そのため2008年(平成20年)の第50次観測はオーストラリアの民間砕氷船/オーロラ・オーストラリス(画像赤い船舶)を傭船しました。

実は初代しらせが、氷海に閉じ込められたオーロラ・オーストラリスを救援した事があるのです。

=4代目.南極観測船(砕氷艦) しらせ(2代) AGE5003=
第51次~2009年(平成21年)から従事する現行の南極観測船(砕氷艦)です。
油もれ対策として船体を二重船殻とした他、廃棄物処理室や生活汚水浄化装置を配備し環境に配慮したエコシップとなり、砕氷能力も高くなっています。

=後方甲板=
外された船の推進装置、スクリュープロペラを展示しています。
宗谷は氷の海を航海するため、鋳鉄製の肉厚なブレード(翼)を採用し直径は約3メートル。
左右各1個、計2個付いていました。

ここには冷凍品を出し入れする4番ハッチがありました。
倉口が小さく積み込みに手間取ったそうです。

今は見学通路となり、階段を下ると‥

上甲板

上甲板です。
一般乗組員・観測隊員の居室や食堂などが中心となっています

=第3科員室=
科員用の居室で、2段ベッドが2つある4人部屋。
各居室ともエアコンがなく、赤道通過時は暑さに苦しめられたそうです。

=第2科員室=
こちらは2名用ですね。

=第1科員室(観測隊室)=
観測船時代は観測隊員用の居室として使われた部屋です。
他の科員室より広くてゆとりがありますね。

=科員食堂(観測隊員食堂)=
南極観測当時、観測隊員用の食堂として用いられた部屋です。
食事の他、娯楽室としても使われました。

下部にある主機(エンジン)を見学できるように、引退後フェンスとガラスが設けられました。

=主機(8気筒エンジン)=
宗谷の心臓部である主機です。
砕氷して進む強力な主機で、2サイクル8気筒のディーゼル・エンジンが2基並列に配置。
合計で4800馬力、48トンの推力を出しました。

=冷蔵小出し庫=
船倉の大型冷蔵庫より小出しした、肉や野菜、冷凍食品をここで貯蔵保管します。
冷凍食品は南極観測船に実用化され、従事する人々の胃袋を支えました。

=科員食器室/観測隊員食器室=
士官食器室同様、船が大きく動揺する過酷な航海でも食器が落下しないよう、差し込み式の戸棚が設置されています。

これは給湯器ですね。

=調理室=
調理関係の仕事は主計科の担当で、南極観測船時代は130名分の食事を主計長以下12名程の乗組員が従事していたそうです。
室内には蒸気がま、電気式パン焼器等の各種調理器具が配置され、豆腐製造機までありました。

やかんと湯呑み。
懐かしい形だ。

=流し場=
調理室に隣接して野菜や食器を洗う流し場があります。
奥に圧力釜が見えますね。

=樺太犬/タロとジロ=
第1次南極観測で隊員と共に越冬した樺太犬は19頭で大陸調査等で活躍しました。
1958年2月、第1次越冬隊戦から第2次越冬隊への交代時、気象状況がきわめて悪化。
交代を断念し15頭の樺太犬を鎖につないだまま、無人の昭和基地に置き去りにせざるを得ませんでした。
そして、タロとジロだけがマイナス40度を超える極寒を耐え抜き、第3次観測隊によって発見されたのは有名な話です。

=三毛猫/タケシ=
南極に同行したのは犬だけでなく、ネコもいました。
永田武観測隊長にちなんで命名された三毛猫/タケシは、我が国初の南極越冬猫になりました。

ネコは船酔いしなかったのかな‥

=アイスクリームフリーザー=
インド洋を南下し赤道を通過する頃は猛暑との戦いを強いられます。
船内にはエアコンがなく扇風機だけだったので、アイスクリームフリーザーを設置して暑さを和らげていたそうです。

=第9士官寝室(観測隊長室)=
第1次南極観測当時、観測隊の最高責任者である観測隊長の居室でした。
現在の2倍の広さがあり、数名による会議や打合せも行えるようになっていました。

=第6航海科倉庫=
予備の信号旗や航海用の備品など、航海に必要な備品が収納されています。

=第11士官寝室=
1段ベッドが2つあり。2人部屋となっています。
ベッドの寸法は長さ180センチ・幅65センチと小さめでした。
 

=補機室入口=
この下にボイラーや各種ポンプなどがある補機室があります。
左の太い管はエンジンとファンネルをつなぐエンジン煙道です。
熱気がすごかったでしょうね。

=第7科員室=
外洋航海中はローリング(横揺れ)が激しく、この部屋のように船の前後方向に対しベッドが横向きに置かれている部屋は夜も眠れない程でした。

上甲板の通路。
当時の面影が今も漂っていますね。

=主機室入口=
この下に主機(エンジン)を中心とした機器類を置いた主機室があります。
南極観測船時代は機関長以下25名ほどの機関科乗組員が整備や運用にあたりました。

=第13士官寝室=
机の上には船独特のエアスクープという金属製の風受けが置かれています。
これを舷窓に差し込んで外気を室内に引き入れ。暑さをしのいだそうです。

=第4准士官室(観測隊員室)=
第1次南極観測船時代は、観測隊員の居室として使用された部屋です。
観測隊員用の制服や防寒衣類など装備品は総て支給されました。
赤道付近は猛暑に苦しめられたうらはら、南極に近づくと防寒服を身を纏うギャップがすごいですね。

=第5准士官寝室(観測隊員室)=
2段ベッドの2人部屋。
この部屋も南極観測船当時は、観測隊員用の居室として使用されました。

=第10科員室(観測隊員室)=
南極観測船時代は、観測隊員用の居室として使用。
1次観測では観測隊員が53名いたのですが、50名、37名と減少し第6次観測時は18名だったそうです。

=治療室=
南極までの長い航海。
治療室は船内の病院として機能し、医師が乗船していました。

南極観測船の治療室では、虫垂炎程度の手術であれば、ここで行われました。
揺れる船上で手術とはすごいですね。

=第11科員室(観測隊員室)=
第1、2次南極観測当時、観測隊員の居室として使用された部屋なので、他の一般科員室よりゆとりがある居室となっていますが、観測隊員の減少にともない一般船員の居室となりました。

本船は南極観測船当時の状態を保っており、急な階段や狭い通路等があるためバリアフリー対応しておりません。
階段を昇って‥

再び最上甲板

再び最上甲板です。
右舷部を見学してみましょう。

=第4士官寝室(生物観測室)=
初期の南極観測においては第1暗室として用いられ、第3次南極観測以降は生物観察室に改装。
南極観測船の役目を終えた後、士官寝室となりました。

=第3士官寝室=
士官用の居室です。
この最上甲板の居室は、下の上甲板の居室に比べ比較的広く、主に士官用の居室に充てられました。

=通信長室=
通信科の責任者、通信長の居室です。

=通信室=
宗谷のコールサインはJDOX。
南極観測当時、無線通信は日本との唯一の交信手段として重要でした。

船橋 (操舵室)

操船の要、船橋(操舵室)に上がってみましょう。

=船橋(操舵室)=
船橋(操舵室)は船の操縦を行う場所です。
主機の出力をコントロールするエンジン・テレグラフ等、様々な操船・航海計器が配置されています。

船橋(操舵室)からの眺め。
海況が悪い時の航海はここまで波を被ることが日常茶判事でした。

船首に立つ2本の柱は、前部角形マスト前部の船倉に、荷物を積み込むための荷役装置です。
2本の柱を上部でつないだ門型をしており、より効率的に荷の積み下ろしが行えるようになっています。

進路を定める舵輪。
今の船は小さい舵輪が主流ですが、この当時は大きいタイプの舵輪が主流でした。

操舵室に設けられた傾斜計。

右の指針が最大傾斜度で、右に34度傾斜した事を示していますが、実際には第1次観測の航海時、暴風圏に突入した宗谷は振り子のように動揺し、最高62度!までローリングした記録があります。

大時化や暴風圏の航海となると、浮いてるんだか浸水しているのだかわからない状態での航海を強いられました。
また、南極観測船改造時に氷海をスムーズに航行させようと、もともと装着されていた動揺軽減装置ヒルジキールを撤去してしまったことから動揺が激しい船になってしまったとか。

南極への航海が過酷だった事が伺えますね。
揺れがあまりにも過酷だったのか、1次航海終了後にヒルジキールが再装着されました。

=海図室=
船の運航に欠かせない海図。
航海に必要な各種の海図を収め、自船の位置や航路を定める作業を行う場所として機能しました。

端艇甲板

急な階段を下って、次は端艇甲板です。

=船長室=
船の最高責任者/船長の部屋は操舵室の下に位置しています。
船長公室・寝室・浴室があり、公室は執務や来客との応接などに使われました。

=ヘリコプター発着甲板=
大型のシコルスキーS-58型ヘリコプターが離発着できる甲板です。
第3次南極観測の時、大型ヘリ2機・小型ヘリ2機・デハビランド・ビーバー航空機1機を搭載しました。

黒いアーチ状の鉄柱は後部角形マストで、後部船倉の荷物の積み降ろしや、大型ヘリコプターの移動等に用いる荷役装置で、最上部にはヘリコプター帰投用のアンテナも付いています

=救命艇兼作業艇=
木製のエンジン付救命艇兼作業艇(艇長11m)です。
南極観測時は、主に物資の運搬や交通等の各種作業に用いられました。

2代目南極観測船/ふじ以降、南極観測船は防衛庁(海上自衛隊)の管轄となりましたが、宗谷の時代は海上保安庁の管轄でした。

以上で見学は終了です。
名残惜しいですが、下船しましょう。

1938年(昭和13年)耐氷型貨物船として建造され、太平洋戦争では奇跡的な生還を果たし、引揚船、灯台補給船となり、日本初の南極観測船、そして海上保安庁の巡視船として通算40年活躍した宗谷
当時、船の科学館初代館長であった笹川良一氏は、宗谷不可能を可能にした、奇跡の船と絶賛し、未来ある青少年に宗谷を通じて勇気や情熱を学び取ってほしいと考えて保存・展示することにしました。

苦難に立ち向かい懸命に走りつづけた宗谷は、令和の時代になっても見学に訪れる人々にその長い歴史を語り続けてくれることでしょう。

ご覧下さいまして誠にありがとうございました。